ALS 進んでしまう症状

解らなくてごめんね

7月に入ると言葉でのコミュニケーションが殆どとれなくなり、手先がかろうじて動かせる程度症状が進行してしまいました。妻の表情を観て寝返りや水分補給などを行うのですが、意思を解ってあげられなくて、おろおろすることもあり我ながら情けない気持ちでいっぱいなってしまい、自己嫌悪で落ち込んでしまいそうでした。娘は女性同士ということもあって妻の表情から上手に意思を汲み取って看病してくれていました。解らないことは、はっきりと解らないと妻に言える娘の強さには驚きましたが自分には到底出来ませんでした。近い間隔で襲ってくる吐き気に耐えている妻の様子を見ることが辛かったのですが、一番辛いのは妻なのだから出来る限り笑顔で接しようと思っていました。不器用な自分ですが、背中とベッドの間をさすってあげる背抜きはパパが一番上手と言葉ボードを指して言ってくれて、とても嬉しかったです。

食事が取れない

7月からは会社には事情を話して休みを取りました。娘も出来るだけの休みを取ってくれて、交代で付き添ってくれていました。瘦せて行く娘の身体も心配でした。この頃の妻は、夜になると自分に自宅に帰るようにと強い意志表示をするようになりました。傍に居たいと言っても許してくれず、仕方なく帰ったふりをして居たら激しく怒られたりしました。後で看護師さんが教えて下さいましたが、自分の仕事が人の生命を預かる仕事で瘦せて行くのをとても心配してくれていたとのことで、一番辛いのは妻なのに、どこまでも優しく思いやりを与えてくれる妻が切なくて愛しい限りでした。この頃は自分も娘もなかなか食事が喉を通らなくなっていて、無理に食べるとお腹が痛くなったり、吐き戻したりしていました。自分では気付かなかったのですが、傍目からも娘も自分も人相が変わるほどに痩せていたとのことでした。

最後の花火大会

7月17日の夜には花火大会が行われました。看護師さん達も協力して下さり、病院の窓から観られるようにベッドの位置と高さを変えて始まるのを待ちました。打ち上げ花火が唐津城を背景に病室の窓一杯に咲き広がると、妻は手を指して笑顔を浮かべて喜んでくれました。元気な頃は二人で浴衣を着て観に行っていました。妻は美しくとても若く見えて、花火大会や旅行の時などに若い愛人と間違われることがしばしばありました。後日にそれが笑い話になって、嬉し恥ずかしくも自分にとっては自慢の妻でもありました。自分はベッドの横に寄り添って、そんな思い出話をしながら、来年も一緒に観ようねと言いながらも妻から涙が見られないようにと横を向いて懸命に悟られないようにしていました。19日に妻から指摘されていた自分の伸びてしまった髪を切ることができて、午後には娘が来てくれて、娘の勧めもあって、「妻にまた明日ね。」と告げて仮眠を取るために帰宅しました。それが妻と交わした最後の言葉になりました。

行政書士 辻賢一事務所